高田治忠
時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 孫十郎(通称) |
官位 | 豊後守、河内守 |
主君 | 羽柴秀勝→豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 高田氏 |
高田 治忠(たかだ はるただ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣氏の家臣。
略歴[編集]
近江国の国人。羽柴秀勝に仕え、山崎の戦いなどに従軍。天正13年(1585年)、秀勝が18歳で没すると豊臣秀吉の直臣となり、文禄・慶長の役に従軍し、晋州城攻防戦にも参戦[1]。慶長年間に丹波国何鹿郡上林にて1万石を領する。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、7月に人質流出を防ぐ為、大坂高麗橋を守備する。その後、田辺城の戦いに参陣した為、戦後に改易となった。
脚注[編集]
- ^ 須田茂『徳川大名改易録』(崙書房出版、1998年)103頁