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額田部比羅夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

額田部 比羅夫(ぬかたべ の ひらぶ、6世紀 - 7世紀、生没年不詳)は、古代日本の豪族飛鳥時代官人

記録[編集]

「額田部」は応神天皇の皇子、額田大中彦皇子名代とも、あるいは額田部皇女(推古天皇)の資養のために設置された「部」とも言われ、ほぼ全国に分布している。比羅夫の額田部連一族は、大和国平群郡額田郷(現在の大和郡山市)を拠点とする氏族であった。比羅夫は、以下の記述にもあるように、主として外交面で活躍している。

日本書紀』巻第二十二によると、推古天皇16年(608年

唐(もろこし=中国)の客(まらうと)、京(みやこ)に入(い)る。是の日に、飾騎(かざりうま)七十五匹(ななそあまりいつぎ)を遣して、唐の客(まらうと)を海石榴市(つばきち)の術(ちまた)に迎ふ。額田部連比羅夫(ぬかたべ の むらじ ひらぶ)、以て礼(ゐや)の辞を告(まう)す[1]

と記述されている。

隋書』倭国条には、この時の出来事が以下のように記述されている。

倭王、小徳(せうとく)阿輩台(あへたい)[2]を遣はし、数百人を従へ、儀杖(ぎぢゃう)を設け、鼓角を鳴らして来(きた)り迎へしむ。後十日、又大礼哥多毗(かたひ)を遣はし、二百余騎を従へ郊労(かうらう)せしむ」 (倭国王は、小徳阿輩台を数百人の伴揃えで派遣して、武装した兵隊を整列させ、太鼓・角笛を鳴らして〔隋使裴世清を〕迎えさせた。十日たって、また大礼哥多毗を派遣し、二百余騎を從えて、都の郊外まで出迎えさせた)

文中の「大礼哥多毗」が「ぬかたべ」の「かたべ」ではないかと言われている。

上記の2つの記述から、比羅夫は「唐」(もろこし)の返礼使である裴世清の来朝にあたって、正式に国家を代表して歓迎したことが分かる。かくして古代日本は、その首府である飛鳥の地へ大国の正式な外交使節を迎えたのであった。

額田部比羅夫は、この2年後の10月にも、膳臣大伴(かしわで の おみ おおとも)と共に新羅・任那の使人を出迎えるべく「荘馬(かざりうま)の長(おさ)」を勤め、「阿斗の河辺の館(むろつみ)」に迎え入れている[3]。この時の主導が蘇我馬子蝦夷らであり、聖徳太子が参加していないところから、大陸関係の交渉は太子、半島関係の交渉は馬子という役割分担ができていたのではないか、と直木孝次郎は述べている[4]。その指摘が正しければ、両者からの厚い信頼を受けていたことになる。

また、翌年の5月の菟田野の薬猟(くすりがり=鹿の若角をとる猟)の際に、粟田細目(あわた の ほそめ)が前(さき)の部領(ことり=指揮者)に、額田部比羅夫が後(しりえ)の部領に任命されている[5]

額田部連一族は、天武天皇13年(684年)に八色の姓が制定されたことにより、宿禰を得ている[6]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』推古天皇即位16年8月3日条
  2. ^ 北史』は「何輩台」。岩波文庫訳注は大河内直糠手・難波吉士雄成のうちのいずれかだが不詳とする。音や日付が合わないこと、小徳の冠位が高いことを考慮すれば、朝廷の場面に出ている阿倍鳥が考えられる。
  3. ^ 『日本書紀』推古天皇即位18年10月8日条
  4. ^ 『日本の歴史2古代国家の成立』p72 - p73、p101 - p103、直木孝二郎:著、中央公論社、1965年
  5. ^ 『日本書紀』推古天皇即位19年5月5日条
  6. ^ 『日本書紀』天武天皇13年12月2日条

参考文献[編集]

関連項目[編集]