コンテンツにスキップ

趙雲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
趙雲
蜀漢
鎮軍将軍・中護軍・永昌亭侯
出生 生年不詳
冀州常山国真定県
死去 建興7年(229年
拼音 Zhào Yún
子龍
諡号 順平侯
別名 虎威将軍
主君 公孫瓚劉備劉禅
テンプレートを表示

趙 雲(ちょう うん、拼音: Zhào Yún、生年不詳 - 建興7年(229年)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての将軍。子龍(しりゅう・しりょう)[1]冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号永昌亭侯順平侯

生涯[編集]

公孫瓚の配下にいた頃、青州袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎(騎兵隊長)となった。

建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操自ら指揮を執る5,000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて逃走した。この時、趙雲が劉禅を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、2人は危機を免れることができたが、劉備の娘2人は曹純に捕らえられた(長坂の戦い)。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。

劉備の入蜀時には荊州に留まった。建安18年(213年)、諸葛亮張飛劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた[注釈 1]

劉備の東征では、魏への備えと後方支援のため江州に駐屯し、敗走する劉備の救援を行った。建興元年(223年)、劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。

建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。建興6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、曹叡曹真を郿に派遣し、諸軍の指揮を命じて駐屯させた。趙雲は鄧芝と共にその相手をする事となり、諸葛亮は祁山を攻めた。曹真は箕谷に大軍を派遣したが、兵の数は趙雲と鄧芝の方が多かった[注釈 2]という(『漢晋春秋』)。しかし曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱かったので、箕谷で敗北した。その際趙雲は自ら殿軍を務め、軍兵を取りまとめてよく守り、輜重もほとんど捨てずに退却できたため、大敗には至らなかったが、鎮軍将軍に降格された[注釈 3]。一方、『華陽国志』では位階ではなく禄を貶したとの記録がある。『水経注』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている。

建興7年(229年旧暦11月、没した。子の趙統が後を継いだ。

景耀4年(261年)、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蔣琬費禕陳祗夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超龐統黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。

趙雲別伝[編集]

正定県趙雲故里にある趙雲像
公孫瓚の下で活躍する趙雲

正史『三国志』(蜀書)趙雲伝に裴松之が引用した『趙雲別伝』には、趙雲について以下の記述がある。

生誕[編集]

常山真定出身。身長八尺(約184cm)、姿や顔つきが際立って立派だったという。

公孫瓚配下時代[編集]

故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて幽州の公孫瓚の配下となった。

当時、袁紹は冀州牧を称していた為、公孫瓚は冀州の人々が袁紹に従うことを憂いていた。公孫瓚は趙雲の来付を喜び、趙雲をからかって「聞くところでは、君の州の人は、みな袁紹に付くことを願っているという。君はどうして、ひとり心をめぐらせ、迷ったのちに正道に戻ることが出来たのか」と言った。趙雲は「いま天下は乱れ、いまだ誰が正しいのかを知ることができず、民には逆さ吊りにされるような災厄があります。わたしの州の議論は、仁政のある所に従います。袁紹殿を軽視し、個人的に将軍(公孫瓚)を尊重したのではありません」と言った。こうして公孫瓚とともに征討した。

この時、公孫瓚の元に身を寄せていた劉備と出会い、これが二人を結びつける機縁となる。次第に劉備と趙雲は仲を深めていった。

その後、趙雲が兄の喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は、自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、[注釈 4]趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲は別れの挨拶をして、「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と答えた。

劉備との再会[編集]

建安5年(200年)頃、曹操に追われた劉備が袁紹を頼って来ると、趙雲はで久しぶりに目通りし、劉備は趙雲の来付けを喜び、同じ牀(ベッド)を共にして眠った。劉備は趙雲を派遣して募兵させて、密かに募った数百人の兵を連れて、みな劉備の部曲(私兵)と称したが、袁紹はこの動きに全く気付かなかった。こうして趙雲は劉備に随って荊州へ逃れた。

劉備配下時代[編集]

旧友を生け捕る[編集]

建安8年(203年)、博望坡の戦いで、敵将の夏侯蘭を生け捕る武功を挙げたが、彼が小さいころからの同郷の旧友であることから、劉備に助命嘆願すると共に、法律に明るい人物として軍正に推挙した。その結果、夏侯蘭は軍正として登用されたが、趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬよう、自分から彼に接近しないように気遣った。

長坂坡の戦い[編集]

趙雲(長坂の戦い)

建安13年(208年長坂の戦いにおいて、劉備が敗れると、趙雲が北に逃げ去ったと言うものがいた。劉備は手戟を投げつけて、「子龍はわたしを棄て逃げることはない」と怒った。ほどなく趙雲が到着した。

荊州平定[編集]

建安13年(208年)荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になったとされる(赤壁の戦い#南郡攻防戦)。また、この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁の樊氏(未亡人)を趙雲に嫁がせようとした。趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄なら、わたしの兄のようなものです」と、同姓を理由に断わった。樊氏は傾国の美女であったので、なおも趙雲に、娶るようすすめる者がいたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者では有りません。それに、天下に女は少なくありません」と述べて、これを固辞した。その後、趙範は趙雲の警戒通りに逃亡したが、趙雲は何の未練も持たなかった。

阿斗奪還[編集]

そのころ、劉備の正妻となっていた孫権の妹である孫夫人(孫尚香)は、孫権の妹であることを鼻にかけ、呉の官兵を率い、侍女には武装させて、軍法を無視するわがままぶりを発揮し、劉備は手を焼いていた。劉備は趙雲が厳格で公私をわきまえて、全体を引き締めるにはうってつけの人物であると判断し、この役に任命することにした。こうして趙雲を留営司馬に任じて奥向きのことを取り締まらせた。

孫権は劉備が入蜀したことを知ると、孫夫人を呉に帰らせたが、その際に孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。諸葛亮は趙雲に命じ、張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っている。

益州平定[編集]

益州支配後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした。趙雲は「益州の民衆は度重なる兵火に見舞われ、田地も屋敷も荒れ放題でございます。今はこれを民衆に返し、安心して仕事に戻れるようにし、それから賦役を行なえば、自然と心服するでしょう」と反対した。劉備はその意見に賛成し、従った。

定軍山の戦い[編集]

建安24年(219年)、漢中攻め(定軍山の戦い)で、曹操軍の兵糧を奪うため、黄忠は趙雲の兵を借り出陣したが、約束の時間を過ぎても戻ってこなかった。心配した趙雲は少数の兵を率いて偵察へ向かったところ、曹操の大軍と出くわしたが、見事な撤退戦で無事に囲(拠点)へと戻った。この際、敵陣に取り残された張著を救出した。

しかし曹操軍は再び盛り返し、趙雲らの囲まで追撃してきた。囲には沔陽長の張翼がおり、張翼は門を閉じ拒守しようとしたが、趙雲は陣営に入ると大いに門を開き、旗を伏せて太鼓を止めさせた。曹操軍は趙雲に伏兵があると疑い引きあげた。そして、趙雲は雷のように太鼓を天を震わせるほどたたき、で後から曹操軍を射た。曹操軍は驚き、混乱の中、互いに蹂躙し漢水の中に落ち、大勢が死んだ。(空城計

劉備は翌日の朝、趙雲の囲に自ら向かい、昨日の戦いの場所を視て、「子龍の一身はすべてこれ肝である(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と称賛した。楽を演奏し、宴会は夕方にまで至った。軍中は趙雲を号して虎威将軍とよんだ。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。

対呉戦争[編集]

章武元年(221年)、を討とうとする劉備に、趙雲は「国賊は曹魏であり、孫権ではありません。魏を撃つことが先であり、魏が滅べば呉はおのずと降伏するでしょう。いったん戦端を開けば、それは終結させがたいものではありませんか」と諫めたが聴き容れられず、対呉戦争(夷陵の戦い)では、趙雲は江州督として留まった。劉備が敗戦すると永安まで兵を進めこれを救援した。

第一次北伐[編集]

建興6年(228年)、曹真に敗北した趙雲が自ら殿軍を務め、兵を巧みに取りまとめて軍需物資を殆ど捨てずに退却に成功した。諸葛亮は、副将の鄧芝に「街亭の戦いでは、わが軍が撤退するとき、将兵はばらばらになったが、箕谷の戦いでは撤退するときでも、わが軍はまとまることができた。これはどういうわけか?」と尋ねた。鄧芝は「それは趙雲将軍のおかげであります。将軍自らが殿となり、軍需品や器物をほとんど捨てずにすみ、わが部隊はまとまりを失わずすんだのです」と答えた。

諸葛亮は恩賞として、趙雲が持ち帰った軍需品の絹を将兵に分配しようとした。しかし趙雲は、「敗軍の将に恩賞があってはなりません。どうかそのまま残して赤岸(赤崖)の倉庫におさめ、10月になるのを待ち、冬の備えとされますようお頼みします」と進言した。この趙雲の進言に、諸葛亮は大いに喜んだ。

死後[編集]

劉禅は詔勅で、「趙雲はかつて先帝に従い、その功績はすでに顕かである。朕は幼いときに困難に直面しながらも、彼の忠誠と従順を頼りに危険から身を救うことができた。諡号とは、大きな功績を記す英雄を指す。世間では趙雲に諡号を贈るのは当然のことだと取り沙汰している」と述べた。

景耀4年(261年)3月、大将軍の姜維たちは会議を行い、以下を上奏した。

「考えますに、趙雲はむかし先帝に従い、その労苦・功績はすでに顕かであります。天下を巡り働き、法律を遵守し、功績は記録すべきものがございます。陛下をお救いした当陽の役(長坂坡の戦い)では、義は金石を貫き、忠は至上を守るに十分なものでした。君主がそれを賞することを思い、礼により下に厚くすれば、臣下はその死を忘れます。死者であり知覚があれば、それは不朽とするに足ります。生者であり恩に感じいれば、それは身を投げ出すに足るものです」

「謹んで諡法を調べますに、柔順で賢明で慈愛を持ち恵愛にあふれることを『順』といい、仕事を行う際に秩序のあることを『』といい、災禍や反乱を打ち勝ち平らげることを『』といいます。趙雲に諡して順平侯というべきです」

趙雲別伝の信憑性と見解[編集]

『別伝』とは、後漢時代から東晋時代に至る人物について書かれた書物で、知識人層の名声を高めるためや、晋時代以降に貴族が多く就任していた著作郎の課題として書かれ、信憑性が低く、いい加減な物も多かった。史書は後漢まで国家が編纂するものであった。(ただし、国家が編纂することにより偏向が生まれることもある)

裴松之が『三国志』に注をつけて引用した数々の書物を批判し、史実を確定しようとしたのは、不確実な内容を記す史書が増えたためであった。

趙雲は正史での記述が簡素なのに対し、『趙雲別伝』は活躍の記述が多いため、信憑性を疑う声がインターネット上で多くみられる。しかし引用した作品を厳しく批判したり、矛盾を指摘する裴松之が、『趙雲別伝』には一切疑問を呈しておらず、また、正史と大きく矛盾する点なども見られないため、三国志研究者の論文や著作物でも『趙雲別伝』を著者不明の史料であるが、と前置きの上で、正史を補う資料として採用しており、『門閥社会成立史』[2]などの著書で知られる、中国史学者の矢野主税は、『趙雲別伝』を含めた別伝について「信用性が高い」と論文『別伝の研究』[3]にて論証しており、否定派は極少数である。

採用者および見解[編集]

  • 裴松之: 『三国志』「裴松之注」に採用し、内容について批判・指摘をしていない。
  • 司馬光: 『資治通鑑』を編纂するにあたって趙雲別伝の記述を採用している。
  • 渡邉義浩: 『侠の歴史・東洋編(上)』「裴松之は、『趙雲別伝』については、内容的な誤りなどを指摘することはない。裴松之は、『三国志』を補うことができる史料と認定していたと考えてよい」[4]
  • 矢野主税: 『別伝の研究』 「(略)、蜀志趙雲伝心注にひく雲別伝に、「雲別伝載後主詔臼。云々。」とあって、蜀の後主が雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られるのであって、これら(『荀彧別伝』)は共に、一般史書の欠を補う貴重な史料といわねばなるまい。(略)別伝は当時、世上に流布していた人物評を基として書かれたという性格(勿論その編纂にあたっては種々の資料をその一家に求めたかも知れないが)によって、それら別伝はある個人の作というよりも、当時の社会の作というべきものであったからではあるまいか。換言すれば、別伝とは門閥社会の、その人物に対する評価であったと考えられるのである」

否定派の見解[編集]

  • 史学者[誰?]: 趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なること、第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたのが不自然であることからその内容を否定し、「趙雲別伝とは趙家の家伝を改編したものではないか」と疑問を呈している。[5]

その他[編集]

李光地中国語版は、本伝中の趙雲は功績が少ない一方で、別伝中の趙雲は功績が多すぎるとして、その違いに疑問を呈しているものの、趙雲と張嶷を「(ふたりは)明瞭な頭脳と賢明さを備えている」と評価している。[5]

家族[編集]

親族[編集]

名は不詳。『趙雲別伝』に記載がある。『演義』には登場しない。

子孫[編集]

長男。趙雲の死後、後を継いだ。『演義』では弟と共に趙雲の墓守を命じられる。
  • 趙広(廣)(字:不詳)
次男。沓中での戦いにて戦死。『演義』では兄と共に趙雲の墓守を命じられる。
趙雲の娘(趙氏)と、関羽の長男である関平との間に生まれたとされる人物。

評価[編集]

成都武侯祠の趙雲塑像。清代に作られたもので、別格扱いの関羽、張飛を除くと、蜀漢の武将陣の中でも趙雲の像が筆頭の位置に置かれている。

後世、中国では趙雲を、目上に対して臆せず諫言する姿に、文官的な知性、大臣の気質を持つ儒将として高く評価し、清時代に作られた成都武侯祠の趙雲の塑像が、文官の服を着せられているのはこのためである。清時代は『演義』の流行により、更に高まった趙雲の人気もあり、蜀漢の武将としては、武将廊に筆頭の位置に置かれている。

また、康煕61年(1722年)には、歴代帝王廟に趙雲が従祀名臣の列に加わっている。[6]

その他評価[編集]

  • 陳寿 「黄忠と趙雲は、共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となった。(嬰)・侯)のともがらであろうか」[注釈 5]
  • 楊戲 「征南(趙雲)は厚重、征西(陳到)は忠克、共に選り抜きの兵を指揮し、度々勲功をあげた猛将であった」[7]

四字熟語[編集]

一身是胆(いっしんしたん)[8]
強い勇気があり、何事にも恐れないことのたとえ。体全体に胆力が満ち溢れているという意味から。劉備が趙雲の勇ましさを称えたという故事から。
満身是胆(まんしんしたん)[9]
一身是胆の類語。

三国志演義[編集]

五虎大将軍として関羽・張飛・馬超・黄忠ら四人と同格に位置付けられ、非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。

身体的な特徴付けとして、初登場時に「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」(身長八尺の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)と、まだ少年ながらに体躯堂々たる偉丈夫として描写されている。

長坂では、単騎で大軍の中を単騎で駆け抜け、阿斗と甘夫人を救出する話が代表的な名場面であり、京劇でも人気がある。また、中国各地に阿斗を抱いた趙雲像が建立されている。ちなみに嘉靖版『三国志通俗演義』では、趙雲が逃げようとしない麋夫人を怒鳴ったことをきっかけに麋夫人が井戸に身を投げたことについて、趙雲は不忠者であるという註がつけられている[10]

劉備が、孫権の妹と縁談のため呉に向かった際には同行している。そして、孫権による暗殺から劉備を守り、諸葛亮から与えられていた策を用い、呉から脱出している。

民間伝説[編集]

Mask of Zhao Yun used in folk opera
演劇で用いられる趙雲の仮面

民間伝説によると、趙雲は「白龍」(はくりゅう)、もしくは「白龍駒」(はくりゅうく)という名前の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。子龍池は趙雲の家の裏に在り、白龍とともに趙雲が傷を癒したという。後に子龍池を、民や負傷兵らも傷が癒せるように開放し、大変喜ばれている。

また「涯角槍」(がいかくそう)という槍を得意としていたとなっている。『三国志平話』によると、長さ九尺(約3メートル)で趙雲が「生涯に敵う者なし」という意味で名付けたことになっている。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている。

妻の身分は不詳。民間伝承によると、趙雲の妻に孫軟児なる夫人がおり、この夫人が戯れに刺繍針で趙雲の身体をつついたところ、血が止まらなくなり死んでしまった。河北梆子劇『青釭剣』によると、趙雲の妻に李翠蓮の名が見られる。

上記は正史や『三国志演義』では一切語られていないが、白龍の話は、映画『レッドクリフ』で採用されている。軟児の名は、映画『三国志』(2008年、中国・韓国)で採用されている。

書物[編集]

  • 坂口和澄『三国志人物外伝 亡国は男の意地の見せ所』平凡社、平凡社新書325、ISBN 4-582-85325-0
  • 江陵県志

その他登場作品[編集]

小説[編集]

蜀漢滅亡後、劉備や諸葛亮、関羽、張飛、趙雲たちの子孫が活躍する。
新聞『民徳報』にて連載。馬超、趙雲、馬超の妹の馬雲騄が主人公。日本語訳は以下ふたつの版がある。

映画[編集]

DVD版タイトルは『三国志 武将列伝』

テレビドラマ[編集]

1994年版テレビドラマのリメイク的作品。

アニメ作品[編集]

第一部・第二部・完結編の三部作構成。
日中共作アニメ。

ゲーム[編集]

漫画[編集]

趙雲を主題とした作品[編集]

映画
テレビドラマ
小説
朗読CD
  • 三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ “夷陵に燃ゆ” / 趙雲篇(2012年、主演:KENN
漫画

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『華陽国志』によると翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり『關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞。又以黄忠為後將軍,趙雲翊軍將軍。』と四将と並んで昇進したと記録されている。
  2. ^ 諸葛亮伝および『華陽国志』によれば趙雲らの軍は擬軍(少数の兵を多数に見せかけること)であったという
  3. ^ 盧弼『三国志集解』が注に引く南宋の胡三省曰く。『晋書』職官志によれば、鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位である。趙雲は鎮東将軍から鎮軍将軍に降格したようだが、晋の制度では昇格になってしまう。蜀漢の制度で鎮軍将軍というのは雑号将軍だったのだろうか。それなら降格になるのでつじつまは合う。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。
  4. ^ 192年に常山郡は袁紹の統治領となった。
  5. ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している。

出典[編集]

  1. ^ 趙雲』 - コトバンク
  2. ^ 矢野主税『門閥社会成立史』国書刊行会、1976年1月1日。 
  3. ^ 国会図書館サーチ”. 別伝の研究 矢野主税. 2024年5月16日閲覧。
  4. ^ 鶴間和幸『侠の歴史・東洋編(上)』清水書院、2020年4月7日、243頁。ISBN 9784389501228 
  5. ^ a b 盧弼『三国志集解』による。
  6. ^ 清史稿”. (巻八十四):この時、他に増祀された従祀名臣は、『倉頡、仲虺、畢公高、呂侯、仲山甫、尹吉甫、劉章、魏相、丙吉、耿弇、馬援、狄仁傑、宋璟、姚崇、李泌、陸贄、裴度、呂蒙正、李沆、寇準、王曾、范仲淹、富弼、韓琦、文彥博、司馬光、李綱、趙鼎、文天祥、呼嚕、博果密、托克托、常遇春、李文忠、楊士奇、楊榮、于謙、李賢、劉大夏』. 2024年6月7日閲覧。
  7. ^ ウィキソース出典 季漢輔臣贊 〈贊趙子龍、陳叔至〉 (中国語), 季漢輔臣贊, ウィキソースより閲覧。  - 征南厚重,征西忠克。統時選士,猛將之烈。
  8. ^ 一身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
  9. ^ 満身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
  10. ^ 嘉靖元(一五二二)年序刊『三国志通俗演義』二十四巻「盖因嚇喝主母、以致喪命、亦是不忠也。」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]