藤原親政
時代 | 平安時代末期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 千田親正/智田親雅(ちだちかまさ) |
官位 | 阿波守 |
主君 | 皇嘉門院(九条兼実) |
氏族 | 藤原北家為光流 |
父母 | 父:藤原親盛、母:不詳 |
兄弟 | 親政、盛光、盛保、顕盛、円玄、弁然、少輔掌侍 |
妻 | 正室:平忠盛の娘 |
子 | 快雅、聖円 |
藤原 親政(ふじわら の ちかまさ)は、平安時代末期の貴族。藤原北家為光流、下総守・藤原親盛の子。官位は阿波守。
経歴[編集]
皇嘉門院判官代として中央に出仕し皇嘉門院別当を補佐する一方、祖父親通・伯父親方が下総守に在任中に獲得した所領を父・親盛から継承、千田荘の領家として下総国匝瑳郡に在って坂東平氏や佐竹氏ら坂東の武士団を率いた。居館は匝瑳北条荘の内山館と千田荘の次浦館の2ヶ所が知られる。なお、保元の乱・平治の乱を制し栄華を誇った平家(伊勢平氏)とは、忠盛の婿であり、かつ資盛の伯父という二重の姻戚関係にあった。
治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が房総に逃れ、頼朝に呼応した千葉氏により下総目代が討たれた。このため、親政は千余騎を率いて千葉荘を攻めるが、9月14日(10月4日)千葉常胤の孫・成胤に生虜にされたという [1]。9月17日(10月7日)下総国府に入った頼朝の前に引き出されるが[2]、その後の動静は不明。
千葉氏の被官で千田荘中村を拠点とした中村氏は親政もしくはその一族の末裔と伝えられ、千葉氏胤の家臣で千葉氏と香取神宮が争った香取社応安訴訟事件(応安の相論)の当事者の一人であった中村式部丞胤幹が知られている[3]。
系譜[編集]
脚注[編集]
- ^ 『吾妻鏡』治承4年9月14日条。
- ^ 『吾妻鏡』治承4年9月17日条。
- ^ 千野原靖方『千葉氏 鎌倉・南北朝編』(崙書房出版、1995年) ISBN 4-8455-1015-4 pp377.
出典[編集]
- 福田豊彦・関幸彦 編 『源平合戦事典』吉川弘文館、2006年 ISBN 4-642-01435-7