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緑ウクライナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
極東ウクライナ共和国
Зелений клин  (ウクライナ語)
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
極東共和国
1917年 - 1922年 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
極東共和国
極東ウクライナの国旗
(極東ウクライナ共和国が掲げた旗[1][2]
極東ウクライナの位置
極東ウクライナ共和国の領土(黄色)
公用語 ウクライナ語
首都 ニコラエフスク・ナ・アムーレ
極東会議議長
1920年 - 1922年 ユーリ・フルスコ=モヴァ
変遷
設立 1917年6月11日
独立1918年4月
滅亡1922年10月25日
現在ロシアの旗 ロシア

緑ウクライナ(みどりウクライナ、ウクライナ語: Зелений клин, Zelenyy klynロシア語: Зелёный Клин, Zeljonyj Klin英語: Green Ukraine)は、アムール川から太平洋岸までのロシア極東におけるウクライナ人の植民地の名称である。緑の楔とも呼ばれる。

1917年のロシア革命以降、極東ウクライナ共和国がウクライナ人によってロシア極東に建国されることが計画された。ボリシェヴィキ極東共和国が1920年4月6日に設置されると、ウクライナ人が多数であった極東は、この国家を脱して「緑ウクライナ」と呼ばれる国家の建設を試みた。しかし、この運動はすぐに失敗した。

沿革[編集]

会議の議長[編集]

領域[編集]

アムール川近郊からウスリー近郊、ハバロフスクウラジオストク

水界地理学[編集]

現在の極東と同様の海岸線を持っていた。

歴史[編集]

ウクライナにおいて、ウクライナ人は主に農村に住んで農業を営んでおり、ロシア人ユダヤ人などの多い都市部にはあまり住んでいなかった。当時のウクライナ人は都市を敬遠しており、19世紀末のウクライナで進展した都市化や工業化では主にロシア人が流入した一方、ウクライナ人はウクライナ内の炭坑や工場で労働者となるよりも、むしろ国外や辺境で農地を持つことを望んだ。多くのウクライナ人がカナダアメリカ合衆国の農業地帯に移民したほか、ロシア帝国内では人口希薄な東方、中でも極東に移動して農業を営んだ。

ロシア極東のアムール川から太平洋岸にかけては、ゼレニークリン (Zeleny Klyn ウクライナ語: Зелений клин)、あるいはゼレニーウクライナ、東部ウクライナと呼ばれており、ウクライナ人に殖民された地域であった。これらはウクライナ人の植民者が名づけたものである。これらの領域は100万平方キロメートルを含む広大な土地で、ウクライナ人の人口は1926年には総人口のうちの41%から47%に達していた。なお、1958年の時点で総人口は310万人であった。

ゼレニー・クリンがロシア帝国の一部となったのは、シベリアやこの地域を除く極東と比べてはるかに遅かった。この地域で最初に試みられた殖民は、17世紀中期まで遡ることができる。この時、ハバーロフがアムール川岸のアルバジンに要塞を築いている。それ以来、絶え間なく斥候兵が満州地方で小競り合いを起こすようになった。1669年にはネルチンスク条約が締結され、アムール川を境として北部がロシアの領土となった。

19世紀中期、1853年から1856年の間に起こったクリミア戦争でロシアが敗北すると、ロシアは第二次東方拡大を行った。多くのコサック殖民がアムール川近郊に設置された。このとき、ロシアより圧倒的に武力に劣っていた清帝国はロシアとの戦争を避け、1853年にアイグン条約プリモルスク条約を1860年に締結し、現在に至るまでの国境線を築くこととなった。当期間の植民者の数は少なく、1万4000人のコサックと2,500人のロシア兵がいるのみであった。1816年、プリモルスキー州とアムールスキー州が設置される。ウラジオストクは1860年に、ハバロフスクは1858年に建設が始まった。

1882年、ウクライナからこの地域への自由移動が公表された。植民者には自由地が提供された。植民者の乗る船はウクライナのオデッサ港から出発した。その結果、1897年までに人口が31万人へと増加した。1901年、シベリア鉄道の設置が完了し、以来、毎年1万4000人ほどの移住者がウクライナから渡っていった。1907年に植民者の数は最大となり、7万8000人の人々が渡った。

1914年、当地はアレクサンドル・コルチャーク海軍大将の管轄下に入った。この時点で、後の緑ウクライナとなる地域にウクライナ人のコミュニティが結成されており、ロシアから分離して独自の政治システムを生み出し始めていた。この独自性が緑ウクライナとして独立するに至らせたと一般に認識されている[3]

そうした中、ロシア内戦が勃発する。1920年には、極東共和国が日本とロシアの緩衝国として設置された。1922年にこの共和国はロシア社会主義共和国に編入された。1934年、ユダヤ人自治州がこの地域の首都であったビロビジャンに設立された。ソビエトの支配を嫌ったウクライナ人の中には、極東から中国領の満州や日本領の南樺太に逃れる者もおり、当地の「白系ロシア人」の大きな部分をなしていた。

脚注[編集]

  1. ^ Green Ukraine / Ukrainian Far East (1921, Russian Far East)”. FOTW "Flags Of The World". CRW Flags (2001年2月24日). 2018年10月24日閲覧。 “In “Flags of Non-Russian Peoples Under Soviet Rule” by Prof. Walter Trembicky [tbc69], pages 134 and 135, it mentions two proposed flags for Green Ukraine, or the Ukrainian Far East, neither of which was officially adopted, since the movement quickly proved abortive. There are simple black & white line drawings illustrating the two proposed flags on p. 133 of [tbc69]. The green in the two flags was described as dark or deep green. ... One [of the two proposed flags] was the Ukrainian blue-over-gold bicolor with a green triangle at the hoist.”
  2. ^ Trembicky, Walter (1969). Flags of Non-Russian Peoples Under Soviet Rule. Flag Research Center. pp. 134, 135 
  3. ^ Encyclopedia of Ukraine. Volume II, G-k. Volodymyr Kubijovyc. Toronto [Ontario]. (1988). ISBN 978-1-4426-3281-3. OCLC 1055594747. https://www.worldcat.org/oclc/1055594747 

参考文献[編集]

  • (日本語)『戰争終末ニ於ケル獨逸及東隣諸國間通商關係條約』 / 外務省臨時調査部[編]. 約改正調査報告 ; 第15號. 外務省臨時調査部, 1921.
  • (日本語)『ウクライナとは何ぞや』 / [野村海外事業部訳編]. 野村海外事業部, 1939.
  • (日本語)『西部白ロシヤ及西部ウクライナ』 / 南満州鉄道株式会社調査部第三調査室編. ソ聯研究資料 ; 第59号. 南満州鉄道, 1940.
  • (日本語)『ウクライナ独立問題の民族史的考察』 / 東亜研究所編; 丙第43号D. 東亜研究所, 1941.
  • (ウクライナ語) Кабузан В. М. Переселення українців у Далекосхідний край // Український історичний журнал. — Київ, 1971.
  • (ウクライナ語) Марунчак М. Українці в СРСР поза кордонами УРСР. Вінніпег, 1974.
  • (ウクライナ語) Сергійчук В. Українці в імперії. — Київ, 1992.
  • (ウクライナ語) Білий Д. Малиновий клин (Нариси з історії українського населення Кубані). — Київ:Україна, 1994.
  • (ウクライナ語) Попок А. Українські поселення на Далекому Сході; історико-соціологічний нарис. — Київ, 2001.
  • (ロシア語) Черномаз В.А. Украинское национальное движение на Дальнем Востоке (1917– 1917-1922 гг.): дис. … канд. ист. наук. Владивосток, 2005.

関連文献[編集]

  • ヴィオレッタ・ウドヴィク『日本とウクライナ 二国間関係120年の歩み』インターブックス、2022年。 
  • 岡部芳彦『日本・ウクライナ交流史1915‐1937年』神戸学院大学出版会、2021年。 
  • 岡部芳彦『日本・ウクライナ交流史1937‐1953年』神戸学院大学出版会、2022年。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]