百済郡
西生郡・東生郡・住吉郡と並んで「江南四郊」のひとつに数えられたが、平安時代末期までに隣接の東生郡と住吉郡に編入されて消滅した。郷数3の小郡であった。
歴史[編集]
背景[編集]
百済郡の設置には、舒明天皇3年(631年)に百済の王子・豊璋と善光が来日したことが大きく関わっている。
設置[編集]
善光は天智天皇3年(664年)に許しを得て居を摂津国の難波に定め、これ以降一族ともども中央貴族として朝廷に仕え、「百済王氏」という姓を下賜されることになる。一族繁栄は著しいもので、持統天皇5年(691年)には食封100戸を追加されて計200戸となったことが『日本書紀』に見られる。さらに「百済寺」と呼ばれる大寺を建立しており(大阪市天王寺区の堂ヶ芝廃寺)、その権勢がうかがえる。[1]
百済郡の設置には、このような百済王氏一族および多数の難民の存在が大きく関わっているとみられている。摂津国百済郡の存在については、「百済郡何里車長百済部若末呂」裏面に「(霊亀)元年」と書かれた長屋王木簡が初見史料である。[1]
また当時の日本は百済からの難民や渡来人を、その理由にかかわらず積極的に受け入れ、その人数が非常に多くなったため郡の新設が行われた。他には武蔵国において高麗郡や新羅郡(後に「新座郡」と改称)が立てられた例もあるが、当時の首都近隣に創られた百済郡とは異なり、開発の遅れていた東国への殖民としてである[1]。設置の時期は、善光が浪速に居住する654年(天智3年)あるいは、斉明朝の「難波百済寺」の存在から評の成立した649年(大化5年)までさかのぼるともいわれている[1]。
特異点[編集]
この百済郡は律令制の郡としては極めて特異な構造の郡であった。通常郡はそれぞれ独自の条里区画を持っているが、百済郡にはそれがなく、隣接の東生郡や住吉郡の条里を流用して済ませていた。また、郷名も『和名類聚抄』の記すところによれば「東部」・「西部」・「南部」と自然地名とは思えない人工的な名称であった。ただし、これには田部郷(現在は田辺と表記)を東・西・南に三分したことに由来するという説がある。読みも元が「たなべ」であるため「ひがしべ」・「にしべ」・「みなべ」などの可能性が十分にある。
このような特異な郡であるため、郡域の特定が難しく、現在もその区域については定説を見ていない。「百済野」の広域地名が残る上町台地東麓にあたる大阪市天王寺区南東部と生野区西部、「北百済村」・「南百済村」の旧自治体を含み、百済貨物ターミナル駅と東部市場前駅(事実上百済駅を継承)が位置する東住吉区北中部などが有力な比定地であるが詳細は不明である。一説によれば、現在の長居公園周辺までを含んでいたのではないかと考える人もいる[1]
参考文献[編集]
- 吉田晶「地域史からみた古代難波」(難波宮址を守る会編『難波宮と日本古代国家』p.281-297、塙書房刊・1977年)