愉貴妃

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愉貴妃(ゆきひ、康熙53年5月4日1714年6月15日) - 乾隆57年5月21日1792年7月9日))は、乾隆帝の側室。蒙古鑲藍旗の出身。姓は珂里葉特(ケリエテ)氏または海氏。員外郎額爾吉圖の娘。

生涯[編集]

はじめ、宝親王の弘暦(のちの乾隆帝)の府邸に入り、格格(側女)となった。

乾隆帝の即位後、海常在に封された。

乾隆2年(1738年)、海貴人に封された。

乾隆6年2月7日(1741年3月23日)、海貴人は第五皇子永琪を産み、皇太后の命で愉嬪に封される。

乾隆10年(1746年)、愉嬪は愉妃に封された。

乾隆28年5月5日,円明園九洲清宴殿が出火した際、愉妃の息子永琪が乾隆帝を背負って避難した。翌日、乾隆帝は愉妃に多くの財宝を贈った。

乾隆57年5月21日(1792年7月9日)、愉妃は病没した。 乾隆帝は愉妃を愉貴妃と追贈し、純恵皇貴妃の園寝に附葬させた。

子女[編集]

登場作品[編集]

伝記資料[編集]