志道元保
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文3年(1534年) |
死没 | 天正10年10月23日[1][2](1582年11月18日) |
別名 | 通称:太郎三郎[1] |
戒名 | 嶺嵓道鷲[1][3] |
官位 | 大蔵少輔[1]、上野介[1] |
主君 | 毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 大江姓毛利氏庶流志道氏[4] |
父母 | 父:志道広長 |
兄弟 | 元保、良泰[1]、女(岡氏室)[1]、女(瀬野氏室)[1]、秀雅(満願寺七世住職)[1]、通信[1] |
妻 | 口羽通良の娘[1] |
子 | 元規[1]、椙杜元縁[1]、元勝[1] |
志道 元保(しじ もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸の毛利氏の家臣。志道城主。志道広良の孫で[1]、父は志道広長[5]。父が若くして死去したため、祖父の後継となる。
生涯[編集]
天文3年(1534年)、毛利氏家臣・志道広長の嫡男として生まれる。天文8年(1539年)9月13日に父・広長が死去したため、幼少ながら元保が後継となって志道氏を相続した[1]。
天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠を誓った起請文においては、2番目に「志道大郎三郎元保」と署名している[注釈 1][6]。
天文24年(1555年)、陶晴賢に味方した野間隆実の矢野城攻略に参加し、同年の厳島の戦いで陶晴賢を討った後に始まった毛利元就の防長経略にも従った。弘治3年(1557年)、元保は阿曽沼広秀や福原貞俊らと供に長門国且山城を攻撃して、なおも抵抗を続ける内藤隆世を自害に追い込んだ。更に大内義長が籠る長福寺を包囲して、4月3日に義長を自害させた。同年7月1日には祖父の志道広良が91歳で死去し、同年12月2日、毛利氏家臣239名が名を連ねて軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文において、2番目に「志道大藏少輔」と署名している[7]。
永禄9年(1566年)の月山富田城の戦いにも参加して戦功を挙げ、本領の志道荘だけではなく、安芸国有富、西条八名、周防国高尾、出雲国多久和を知行し、安芸国中麻原代官を務めた。
天正10年(1582年)10月23日に死去[1]。享年49[1]。嫡男の元規が後を継いだ。次男の元縁は、天正13年(1585年)に椙杜隆康の後継者が不在となったため、その養子となって椙杜氏を継承した。子孫は代々長州藩寄組の藩士として続いた。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。 NCID BN01905560。全国書誌番号:84027305。国立国会図書館デジタルコレクション