中溝昌弘
中溝 昌弘(なかみぞ まさひろ、1841年 - 1927年)は、明治時代の日本の地方政治家、自由民権運動家。地主、三多摩壮士の一人[1]。
来歴[編集]
1841年に武蔵国町田(現・東京都町田市)で生まれる。父親は幕府御典医で維新後は昌平坂学問所に出仕ののち、帰郷して漢学塾を開いた。その長男として生まれた昌弘は自由民権運動に参加し、1878年に結成された「責善会」で石坂昌孝らと活動した[2]。その後、神奈川県会議員となる。晩年は政界から引退し、1927年死去。86歳。
親族[編集]
- 父・白鳥昌純 ‐ 幕府御典医。 上布田宿(現・調布市)出身
- 長男・青木昌吉 ‐ 青木正太郎の養子となる
- 二男・中溝録助 ‐ 生糸業
- 三男・中溝多摩吉 ‐ 政党本部推参事件の首謀者として知られる三多摩壮士の一人。東京外国語学校でドイツ語を学び、台湾で働いたのち、富田幸次郎とともに日本高速度鋼と日本紡績機を設立し専務取締役に就いたが、実業より政治活動に熱心として富田とともに辞任。神近市子の元愛人とも言われる。[3][4][5][6]
- 四男・富永置三 ‐ 稲城村の富永家の養子となる。東京府立第二中学校教諭を経て稲城村村長。東京帝国大学文科大学文学科(選科)出身。[7][8][9]
- 男・中溝五郎 ‐ 鶴川村長。東京都知事を務めた鈴木俊一の祖父に当たる。
関連文献[編集]
- 『民権ブックス6 石阪昌孝とその同士たち』町田市、1993年[10]
脚注[編集]
- ^ 三多摩壮士はなぜ生まれたのか~自由民権運動にみる多摩の DNA根東佑磨ほか、多摩大学経営情報学部 社会工学研究会 多摩学研究
- ^ 町田の民権家と結社 - 町田市
- ^ 中溝多摩吉『大日本実業家名鑑 上巻』実業之世界社、1919
- ^ 日本高速度鋼株式会社『大正と商工』交通社、1918
- ^ 日本紡績機株式会社『全国銀行会社事業成績調査録』帝国経済通信社、1919
- ^ 『亀井貫一郎氏談話速記録』(日本近代史料研究会、1970年)33ページ
- ^ 『町田近代百年史: 增補「町田市の明治百年」』町田ジャーナル社, 1975、p60
- ^ 職員録 大正3年乙
- ^ 官報 1941年10月31日
- ^ 自由民権資料館の逐次刊行物4(『民権ブックス』1から15) - 町田市