コンテンツにスキップ

中溝昌弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中溝 昌弘(なかみぞ まさひろ、1841年 - 1927年)は、明治時代の日本の地方政治家自由民権運動家。地主、三多摩壮士の一人[1]

来歴[編集]

1841年に武蔵国町田(現・東京都町田市)で生まれる。父親は幕府御典医で維新後は昌平坂学問所に出仕ののち、帰郷して漢学塾を開いた。その長男として生まれた昌弘は自由民権運動に参加し、1878年に結成された「責善会」で石坂昌孝らと活動した[2]。その後、神奈川県会議員となる。晩年は政界から引退し、1927年死去。86歳。

親族[編集]

関連文献[編集]

  • 『民権ブックス6 石阪昌孝とその同士たち』町田市、1993年[10]

脚注[編集]

  1. ^ 三多摩壮士はなぜ生まれたのか~自由民権運動にみる多摩の DNA根東佑磨ほか、多摩大学経営情報学部 社会工学研究会 多摩学研究
  2. ^ 町田の民権家と結社 - 町田市
  3. ^ 中溝多摩吉『大日本実業家名鑑  上巻』実業之世界社、1919
  4. ^ 日本高速度鋼株式会社『大正と商工』交通社、1918
  5. ^ 日本紡績機株式会社『全国銀行会社事業成績調査録』帝国経済通信社、1919
  6. ^ 『亀井貫一郎氏談話速記録』(日本近代史料研究会、1970年)33ページ
  7. ^ 『町田近代百年史: 增補「町田市の明治百年」』町田ジャーナル社, 1975、p60
  8. ^ 職員録 大正3年乙
  9. ^ 官報 1941年10月31日
  10. ^ 自由民権資料館の逐次刊行物4(『民権ブックス』1から15) - 町田市