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鼠ヶ関

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鼠ヶ関港から転送)
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鼠ヶ関
山形・新潟県境
山形・新潟県境
北緯38度33分19.91秒 東経139度32分55.83秒 / 北緯38.5555306度 東経139.5488417度 / 38.5555306; 139.5488417
日本
都道府県 山形県
市町村 鶴岡市
地域 温海地域[1]
地区 第四地区[1]
人口
2017年(平成29年)6月30日現在)[2]
 • 合計 1,205人
等時帯 UTC+9 (JST)
郵便番号
999-7126
市外局番 0235
ナンバープレート 庄内
地図
鼠ヶ関の位置(山形県内)
鼠ヶ関
鼠ヶ関 (山形県)
※座標は鼠ケ関駅付近

鼠ヶ関(ねずがせき)は、山形県鶴岡市大字である。郵便番号は999-7126。

地理[編集]

鶴岡市の南西部に位置し、新潟県との県境に面している。北から時計回りに早田槇代小国小名部、新潟県村上市中浜、村上市伊呉野と接する。

特に伊呉野とは市街地が連続しており、伊呉野も鼠ヶ関の一部のように扱われることがある(例えば庄内交通バスの伊呉野停留所は、上りが山形県内、下りが新潟県内に設置されていたが廃止の為、現存せず)。そのため全国的にも珍しい「漁村の集落の中に引かれている県境」が存在する。

県境の移動について林 正巳は「今日の山形・新潟県境は明治初年のとき、作為的に設定されたもの。県境は海岸に迫った低い丘陵の末端からほとんど直角に折れて日本海海岸に延びている。」「古老の話では、出羽・越後の国境は現在の県境からさらに、北方に後退したところにあった。今日の山形・新潟県境は戊辰戦争当時の庄内藩が政府軍を迎え撃つため最前線基地として、砲列を敷いた場所が今日の県境となった。」「新政府の庄内を直轄地として民政局を設置し、庄内地方の経済基盤を新政府の傘下に収め、財政基盤を強化した」「明治4年、酒田県設置では朝敵藩にもかかわらず在地旧藩出身が県の上層部を占めた」「山形・新潟の県境として採用されたのは、新政府の特別の配慮か。越後は朝敵の汚名をきせられていたため県境に対する異議申し立てはせず、今日まで容認した形になっていた。」「鶴岡市立図書館所蔵の古地図で古老の話は正しかった。」と述べている。(林 正巳 『出羽・越後国境の研究―-鼠ヶ関地区―』 p101~103要約 歴史地理学会紀要 第17巻 歴史地理学会. 1975年 )

鼠ヶ関について長井政太郎は「鼠ケ關は沿岸潮流の爲打ち寄せられた三、四米の小砂丘の上に發達した漁村で、背後の山地との間に三角形の水田地帯を挟んでゐる。元來此の低地帶は潟湖であったらしいが鼠ヶ關川の爲埋没されたのである。水田は部落より二、三米低く全部水田化してゐる。部落は三つに別れ、辯天島の北東方、山麓の小部落を關と呼び、有名な鼠ヶ關のあった場所であるが、此村としては最も古く發生した聚落である。附近より縄紋式、彌生式、祝部式の三種の土器が發見されてゐるから先住民族の時代から引續いて聚落に利用されてゐたのであらう。」と記している。(長井政太郎 『山形県地誌 改訂』 武田活版所 昭和17年 p311 国立国会図書館デジタルコレクション 168/212コマ) しかし三種の土器の発見は、山形県遺跡一覧表には記録されていない。

田中啓爾監修の『郷土新書(第6)』には「加茂台地から鼠ヶ関までの海岸と北の吹浦海岸は磯浜であるが、ほとんど一直線で出入りにとぼしく、頁岩を貫いて噴出した玄武岩の蔭に小さな浜があるのみ」「小さな湾が油戸・由良・小波渡・鼠ヶ関等に見られる。」とあり、田中啓爾監修 『郷土新書 第6』日本書院 1950年 p33 国立国会図書館デジタルコレクション 20/91コマ)

ちなみに長野正孝は「日本の船は平底。船は浜に引き上げるもの。修理も浜に揚げて行う。」と説明しているように、浜は海運に重要な役割であることを示し、暗に岩場の多いところは船運には不向きなことを示唆している。(長野正孝『古代史の謎は「海路」で解ける\卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎだす』PHP 研究所 2021年 p. 32–34.)

歴史[編集]

義経上陸地碑
義経上陸地碑

柏倉亮吉・酒井忠一は「鼠ヶ関は古代東北の三関である菊田の関(勿来の関)、白河の関と並んで文字通り鼠ヶ関の関があっただろうと言われている。弁天島の東方山麓の小部落を関と呼び、その付近に古代集落があったらしいことが伝えられている。この関は北陸と出羽口を位置にあり、古代東北の開拓時代蝦夷を防ぐ城柵的性質を帯びていたものと考えられている」と、いずれも伝聞を記している。(柏倉亮吉・酒井忠一 調査の概要 庄内考古学第9集 特集・古代の鼠ヶ関 p1)

山形県と新潟県境付近で致道博物館主体の遺跡発掘調査が、1968年(昭和43年)に行われた。『温海町史』には「山形県側のA地区から製鉄址(10-11世紀前半)、新潟県側のB地区は土器製塩址(9-11世紀)、C地区は平窯址(10-11世紀初)、D地区は千鳥足走行型柵列址(11世紀末)が発掘された」と記されている(温海町史上 温海町 温海町史編さん委員会 p46~p52)。千鳥足走行型柵列址について加藤孝は「柵列址は少なくとも11世紀末を下限とする遺構やに考え得る 」( 加藤孝 考古学上の考察 庄内考古学第9集 特集・古代の鼠ヶ関 p8)との記載や、高橋富雄が、能因歌枕のねずみの関、吾妻鏡の念種関、義経記の念珠関”の文献をあげ、「鼠ヶ関の存在は平安中期から末期ないし鎌倉までの10世紀から11世紀 平安中後期の南を検問し防備する関門と考えられる。」と記し、この関を義経が通ったことを暗に示すとともに、7世紀中葉の蝦夷防御の「関」ではないことを示した。(高橋富雄 歴史的考察 庄内考古学第9集特集・古代の鼠ヶ関 p9)また「都岐沙羅柵を念珠関の前身と考える説についてであるが、これも事実に照らしてみて可能性が希薄である。」とも述べている。(高橋富雄 石船柵おぼえがき 東北学院大学東北文化研究所 東北学院文化大学研究紀要 通号2 1970年(昭和45年)p24)

これらを踏まえ、山形県遺跡一覧表には203-鶴岡 温海441-015 遺跡名:鼠ヶ関館跡、種別:関所跡、時代:平安時代と記され、これまでの鼠ヶ関右岸の関所は、441―041 遺跡名:念珠関跡、種別:関所跡、時代:近世(turuoka.pdf(pref.yamagata.jp)となった。なお、同遺跡の新潟県内分について新潟県遺跡一覧表には、村上市656種別:遺物包含地、名称:伊呉野、時代:中世 (330167.pdf (niigata.lg.jp) と記されている。

大沼浩は「この関は京・鎌倉の南と、出羽・陸奥の北を分けるもの。北の侵入を防ぎ南の逃亡を防ぐために南が置いたもの。鼠ヶ関は荘内地方の名前と考えてはいけな。これは南が北に向かって付けた名前。ねずみの関は子の関で子は北の方向。越国の最北端に置かれたのが子の関であり、それがねずみのせき鼠ヶ関のであろう”(大沼 浩 荘内地名の切絵図 鼠ケ関再考 雪山杉書房 1985年) 手書き別綴:国会図書館デジタルコレクション荘内地名切絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp))と記してる。

蝦夷に対して置かれた城柵の一つである都岐沙羅柵が鼠ヶ関周辺にあったのではないかという説があるが、確たる証拠は発見されていない[3]


現在の県境は戊辰戦争時に庄内藩が陣地を築いた防衛線に由来していると現地で語られており、古代の越後・出羽国境は八坂神社のある丘陵末端と弁天島を結ぶ線であったとする説がある[4]

和田東蔵の戊辰庄内戰爭録巻三(和田東蔵 戊辰庄内戰爭録 巻三 著述者蔵版 明治29年(1896) 国会図書館アーカイブ)には

“十兵衛日記ニ 敵中濱ヨリ進來大小砲ヲ打ヿうつこと雨ノ如シ(中略)我ハ濱手二在テ大砲二門ヲ小田坂下ニ備エ一門ヲハ原海ノ先二出シ敵ノ陣セシ中濱二打シム(以下略)” (P224 116/276 コマ)

“遠藤源助(石澤隊)ニ聞ケル曰此日中濱ニ押來ル敵(中略)前度ヨリハ多勢ニシテ鋭氣又烈シク専ラニ濱手ヲ襲フガ如シサレ𪜈爰ハ胸壁嚴重ニシテヤブラルヘキニ非ラズ(胸壁ニ砲穴ヲ明ケ夫ニ長木ヲ以テ屋根トシ其上ニ土ヲ載セテ破裂弾ヲ防ク)(以下略)” (P230  119/276 コマ)

とある。

ここでは十兵衛治日記の「大砲一門を原海の先に出した」ことや遠藤源助の「最前線である原海の先には胸壁いわゆる塹壕をほり砲穴をあけ、破裂弾を防ぐために長木で屋根をかけたこと」などが記載されている。

ここで言う「原海の先」の「原海」とは、後述の東京大学史料編纂室が記したこように、温海町原海であり、地理院地図に示されている、鶴岡市鼠ケ関の原海にあたる。住居表示法に基づいた原海でもなく、鼠ケ関丙でもない。

原海の先つまり南には越後の伊呉野がある。市域住民の話は、原海の先 伊呉野付近に胸壁が列をなし、大砲や小銃で政府軍を迎え撃った場所が、明治初に県境となったということを裏付けている。

なお、十兵衛日記の“原海ノ軍議ニ中濱ノ枝郷(略)是ヲ焼カハ”(p221   114・276コマ)とあるように、「原海の先」の砲列や胸壁を敷いた場所は、その背後に司令塔がある重要な位置にあったことがわかる。

1846年(正保2年)幕府提出の庄内絵図(山形県史 第1巻 山形県1982年 巻末とじ込み 酒田 本間美術館所蔵の庄内絵図)には、鼠ヶ関川が現在地とみられる位置にあり、右岸に鼠ヶ関村、左岸に一里塚と鼠ヶ関村が記されている。左岸鼠ヶ関村の南に、「原海村此村越後国 此村ヨリ越後岩嵜村迄三十四丁二十間」と記されている。

正保2年(1645年)に江戸幕府に提出した絵図の模写
正保庄内絵図の模写

なお、正保年間から溯って、秀吉が上杉に命じて描かせた、慶長2年(1597)の越後国瀬波郡絵図(越後国郡絵図二 東京大学史料編纂所出版(瀬波郡)より、山北町史が付録に転載)には、出羽・越後国境に「出羽之内庄内分はらミ村」と「越後の内大河分はらミ村」が記されている。

この絵図のうち、「大川分中濱村」の北に描かれている原み村」には「縄高や畠屋敷、家二間」が記されている。この縄の高を示した「原み村」の場所を、東京大学発行の越後国郡絵図には“山形県西田川郡温海町原海”(越後国郡絵図 東京大学史料編纂室 東京大学 1987年 p124)と記している。

つまり、地理院地図で「原海」と示されている温海町鼠ケ関地区の原海は、「縄の高や家二間が記された「越後領原み村」のことと、 1948年(昭和23年)3月31日、米軍撮影の航空写真 USA R-東京大学史料編纂室が述べている。1225-47(鼠ヶ関周辺)と同年同日撮影の航空写真 USA R1225-43(府屋周辺)(地図・空中写真検索結果 | 地理空間情報ライブラリー (gsi.go.jp)を見ると、新潟県の岩崎から山形県の鼠ヶ関まで連続して広い砂浜が続いき、荒天以外は街道として役目は十分機能していたことが見て取れる。荒天時は山沿いを歩き原海の砂丘東を歩いても、凡その距離は等しく見える。

明治7年の全国村名小字名調査書には、山形県に興屋村・原海村がない。 
全国村名小字名調査書 鼠ヶ関村 原海村

正保庄内絵図に記された三十四丁二十間の距離は3,745㎞、(高精度計算サイト (casio.jp) となる。岩崎の北端から砂浜を通り鼠ケ関に向かい、約37mの地点を地理院地図(地理院地図 / GSI Maps|国土地理院)で計測すると、地図に示された興屋南端と原海北端の間の旧水路河口附近となる。

明治政府は明治7年(1874)4月、地誌課が各府県に村名等調査を5月30日まで提出するよう通達し、全国に村名をフリガナ付きで提出させた「全国村名小字調査書」(明治前期 全国村名小字調査書 内務省地理局編纂物刊行会編 ゆまに書房 。昭和62年(1986))には、新潟県にあたる「越後国區別調 第二十五大區 越後国岩舟郡第十小區總四十一村」の中に「原海村」が記されている。このことは、正保2年から明治7年まで原海村は越後国として存在したことを示している。一方、山形県にあたる「管下區別村名調 鶴岡並酒田縣第一大區羽前国田川郡 第一小區十九村」には、鼠ヶ関村は記載されているが、興屋村と原海村は記載がない。村として存在していない。 また、越後村上藩では出羽境に、三カ所の口留番所を置いた。三か所定番の扶持給米は黒川俣組大庄屋から受ける文書として「一、手紙ニ而申遣シ候然ハ各御扶持方之儀(以下略)以上 十一月 四郎左エ門役所 小俣口御番所 浅野加左ェ門殿 雷御番所 伊藤六助殿 原海口御番所 山崎与太郎殿」元禄拾七年御用諸写シ留帳黒川俣組雷村  御定番所 伊藤六助――雷伊藤家文書」(山北村郷土史 山北村郷土史研究会編 

山北村教育委員会 1965年 p287 新潟県立図書館蔵)とあるように、原海口つまり原海村の出口に口留番所があったことからも、原海村の存在は明らかである。

このことから正保2年庄内絵図は、712年(和銅5年)「太政官議奏曰(中略)始置出羽国」(続日本紀巻5新古典文学大系12続日本紀1校註青木和夫他岩波書店1989年p186)とある記述の通り、出羽国南端・越後国北端の国境を正しく記載している。

平安時代には白河関勿来関とともに奥羽三関と呼ばれ、東北地方への玄関になっていた。とはいうもののその根拠は、

当時の文書には根津とする表記もある。

山形県・新潟県県境付近の遺跡発掘 
山形・新潟県境付近遺跡発掘略図

。前述のようにこの時代も原海全体が越後領として存在しているのであるから、この関所周辺のA・B・C・D遺跡は越後領である。

しかし平凡社の山形県の地名「鼠ケ関跡」で執筆者は、“調査は隣接する新潟県岩船郡山北町伊呉野にも及んだ”とだけ記し、山形県側のA地区、新潟県側のB・C・D地区とは記していない。(山形県の地名 日本地名歴史大系6 平凡社 1990年 p654) 

 大沼浩氏は“この関は京・鎌倉の南と、出羽・陸奥の北を分けるもの。北の侵入を防ぎ南の逃亡を防ぐために南が置いたもの。鼠ヶ関は荘内地方の名前と考えてはいけない。これは南が北に向かって付けた名前。”“ねずみの関は子の関で子は北の方向。越国の最北端に置かれたのが子の関であり、それがねずみのせき鼠ヶ関のであろう”(大沼 浩 荘内地名の切絵図 鼠ケ関再考 雪山杉書房 1985年) 手書き別綴:国会図書館デジタルコレクション荘内地名切絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp))と記してる。 「私が、姫路独協大学教授 吉田金彦氏(日本語語源学会主宰)が、現地調査に

来られた時、鼠ヶ関を案内したのは一九九六年九月であった。」と記してい

る鼠ヶ関住人氏は、“古代の鼠ヶ関川は新潟県寄りに流れておったとも言い伝えがある”(鼠ヶ関住人 鼠ヶ関より 古代から中世の鼠ケ関 2012  (nezugaseki50.blogspot.com))とあるように、道は川沿いにできるのが一般的と見れば、古代の鼠ヶ関川は現在の県道345号線沿いに流れ、原海砂丘東下から北上し、興屋と原海の境で海に流れていたであろうことが、画像(国土地理院地理空間情報 USA R1225-43 温海 1948/03/31昭23 米軍撮影)からも読み取れる。

ちなみに万葉仮名の読みは「念」=ね・「珠・種」=す・ず。であるから、「念珠」は「ねず」、念種「ねず」と読む。

江戸時代には「念珠関」「念珠ヶ関」と表記されており(読みは同じく「ねずがせき」)、現在の県境より1k mほど北にあって、1872年(明治5年)に廃止されるまで北国街道羽州浜街道の境になっていた。1924年(大正13年)頃に「史蹟念珠関址」として内務省指定史蹟に認定。その後、古代鼠ヶ関址の発掘(日本では近隣条項によって、旧石器時代から平安末期・鎌倉前までを古代と呼ぶ)によって1989年(平成元年)に鶴岡市指定史跡「近世念珠関址」となった。「念珠関」の表記は1889年(明治22年)から1954年(昭和29年)まで存在した自治体「念珠関村」にも使われていた。

沿革[編集]

施設・名所[編集]

鼠ヶ関港[編集]

鼠ヶ関港

地方港湾避難港の鼠ヶ関港がある。江戸時代には北前船が寄港する港でもあった。

山形県有数の漁港であり、冬になるとイカの寒干しの風景が良く見られる。近辺には魚料理の店が多く、休日になると山形県・新潟県から多くのドライブ客がやってくる。隣接して鼠ヶ関海水浴場があり、夏には、山形県有数の海水浴場として賑わう。釣り客も多く、多くの民宿が軒を連ねている。

現在、鼠ヶ関港の防波堤の外側を、日本海を行き交う大型船の避泊地として使用するため、西防波堤の設置と海底の浚渫による平佐浜泊地整備事業を行っている。

弁天島[編集]

弁天島
左は鼠ヶ関灯台、右は厳島神社社叢

厳島神社鼠ヶ関灯台がある。

マリンパークねずがせき[編集]

鼠ヶ関マリーナ[編集]

鼠ヶ関マリーナ

日本海側屈指の規模を誇るマリーナで、多くのプレジャーボートやヨットが係留されている。庄内地方におけるマリンスポーツの拠点となっており、「べにばな国体」、「国際FJ級ヨット世界選手権大会」といった大きな大会の会場として使用された。

収容隻数
水域 - 0隻、陸域 - 194隻
水面係留を前提として設置された施設ではない。
主要施設
クラブハウス、更衣ロッカー、シャワー、駐車場、上下架施設、給水設備、給電設備、トイレ
マリンショップ、ガソリンスタンドは、近隣に民間経営のものがある。
ビジター受け入れ
行っている。1日4,840円。

念珠の松庭園[編集]

念珠の松庭園

山形県指定天然記念物の大樹。太い枝が20メートル横に伸びている。庭園は造園家の中島健が手がけたもの[6]

関所跡[編集]

古代鼠ヶ関址
奥羽三大古関のひとつ。鶴岡市指定史跡に指定されている[7]が、あったとすれば、それは越後領内である。
近世念珠関址
江戸時代、酒井氏が当地に入部して以降、移転・整備されたもの。市指定史跡[8]

交通[編集]

鉄道路線[編集]

鼠ケ関駅

道路[編集]

  • 高速道路
    • E7 日本海沿岸東北自動車道日本海東北自動車道鼠ヶ関IC[9](仮称、事業中)
  • 一般国道

脚注[編集]

  1. ^ a b 鶴岡市の人口 平成22年国勢調査確報値における III.町・丁・大字区分についてxls に拠る。2013年6月9日閲覧。
  2. ^ 住民基本台帳人口 世帯数”. 鶴岡市 (2017年7月3日). 2017年7月23日閲覧。
  3. ^ 工藤雅樹『城柵と蝦夷』22頁。工藤は念珠ヶ関説を有力と紹介しつつ、自らは疑問視する。
  4. ^ 林正巳 (1975年4月). “出羽・越後国境の研究-鼠ケ関地区” (PDF). 歴史地理学会. 2022年2月26日閲覧。 - 『歴史地理学紀要』第17巻 政治区画の歴史地理 [1975年4月 ]
  5. ^ 新「鶴岡市」の住所(町名・字名)一覧に拠る。2013年6月9日閲覧。
  6. ^ 念珠の松庭園”. 山形県鶴岡市観光連盟. 2019年5月5日閲覧。
  7. ^ 古代鼠ヶ関址”. 山形県鶴岡市観光連盟. 2019年5月5日閲覧。
  8. ^ 近世念珠関址”. 山形県鶴岡市観光連盟. 2019年5月5日閲覧。
  9. ^ 「あつみ温泉以南 日沿道素案発表=山形」『読売新聞』(読売新聞社)、2012年9月14日、東京朝刊 山形南 31頁。

参考文献[編集]

  • 工藤雅樹『城柵と蝦夷』(考古学ライブラリー51)、ニューサイエンス社、1989年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]