松波庄五郎
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天文2年(1533年)? |
改名 | 峰丸、法蓮房、松波庄五郎、西村勘九郎、長井新左衛門尉 |
別名 | 松波庄九郎、山崎屋、西村正利 |
官位 | 豊後守? |
主君 | 長井長弘(土岐政房→土岐頼武→土岐頼芸) |
氏族 | 松波氏(藤原北家日野家支流)?→西村氏→長井氏 |
父母 | 松波基宗? |
子 | 斎藤道三、鷹司政光 |
松波 庄五郎(まつなみ しょうごろう、生没年不詳)は、戦国時代の武将。新左衛門尉と称す。藤原北家日野家一門の松波基宗の子と称し、子に斎藤道三。別名、峰丸[1]・法蓮房[1]・山崎屋庄五郎[1]・西村正利(勘九郎)[1]・長井新左衛門尉。また実名は基就[2]もしくは利隆[3][4]とされるが確証はない[5]。『江濃記』では永井豊後守とされる[6]。
『美濃国諸旧記』、『美濃明細記』、『土岐斎藤由来記』などが江戸時代に成立した多くの軍記物では、松波庄五郎は斎藤道三と同一人物とされていたが、近年では『岐阜県史』編纂の過程で発見された古文書「六角承禎条書写」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉との父子2代にわたるものであったことが明らかとなっている[7][8][3]。
生涯[編集]
史料に見る長井新左衛門尉の来歴[編集]
下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は、江戸寛永年間成立と見られる史書『美濃国諸旧記』などにより形成され、坂口安吾・海音寺潮五郎・司馬遼太郎らの歴史小説で有名になっていた。しかし、1960年代に始まった『岐阜県史』編纂の過程で大きく人物像は転換した。編纂において「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)の中から永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」が発見された。この文書は近江守護六角義賢(承禎)が家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、前欠であるが次の内容を持つ。
- 斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。
- 新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。
- 新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。
- 義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。
- 道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。
同文書の発見により、従来、道三一代のものと見られていたいわゆる「国盗り物語」は、新左衛門尉と道三の二代にわたるものであることが明らかとなった。父の新左衛門尉と見られる名が古文書からも検出されており、大永6年(1526年)6月付け「東大寺定使下向注文」(『筒井寛聖氏所蔵文書』所収)および大永8年2月19日付「幕府奉行人奉書案」(『秋田藩採集古文書』所収)に「長井新左衛門尉」の名が見えている。一方、道三の史料上の初出は天文2年(1533年)6月付け文書に見える「藤原規秀」であり、同年11月26日付の長井景弘・長井規秀連署状にもその名が見える。
新左衛門尉は新参者で所領を持たなかったため、佐竹常秋という人物の知行地を横領するなどしていたことが書状から確認されている[9]。
出自と出家・還俗[編集]
明応3年(1494年)に山城乙訓郡西岡で生まれたとされてきたが[1]、生年については永正元年(1504年)とする説があり、生誕地についても諸説ある。また、子であるとされる斎藤道三も同時期の生まれとされており、年代が合わない。
松浪家は先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗といい、事情によって西岡に住んでいたという。松波庄五郎は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った[1]。
木下聡は、松波氏は代々日野家の家僕を務めたことから、同じく日野家の家僕を務め宗の字を通字とした山形氏の庶流出身の基宗が、山形氏が一時断絶したか何かで山形姓を名乗るのを憚り、関係のある松波姓を名乗ったという可能性を指摘している[10]。
商人時代[編集]
油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、油商人となり山崎屋を称した。大永年間に、庄五郎は油売りの行商として成功し評判になっていた。その商法は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といって油を注ぐ一種のパフォーマンスを見せるというもので、美濃で評判になっていた。行商で成功した庄五郎であったが、ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われ、一念発起して商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという[1][注釈 1]。
仕官とその後[編集]
その後、武士になりたいと思った庄五郎は常在寺の住職となっていた(日護房改め)日運を頼み[1][注釈 2]、日運の縁故(日運の兄が長井利隆)を頼った庄五郎は、美濃守護土岐氏小守護代の長井長弘家臣となることに成功した。庄五郎は、長井氏家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した[1]。
勘九郎(庄五郎)はその武芸と才覚で次第に頭角を現わし、守護土岐政房の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。頼芸が兄政頼(頼武)との家督相続に敗れると、勘九郎(庄五郎)は密かに策を講じ、大永7年(1527年)8月、政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献した。
公卿三条西実隆の日記に、天文2年(1533年)に長井豊後が病になったとする記述がある。庄五郎は長井豊後を名乗っていた可能性があり、その場合没年が天文2年以降となり、斎藤道三(長井規秀)の初見文書が天文2年であることと合致するとの指摘がされている[注釈 3]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e f g h i 『美濃国諸旧記』
- ^ 横山住雄『斎藤道三』濃尾歴史研究所、1994年。
- ^ a b 松田亮『斎藤道三文書之研究』1974年。
- ^ 松田亮「長井新左衛門豊後守藤原利隆―長井利政(道三)・同道利の実父―」『郷土研究岐阜』73号、1996年。
- ^ 木下聡 著「総論 美濃斎藤氏の系譜と動向」、木下聡 編『美濃斎藤氏』岩田書院、2014年、16頁。
- ^ 小和田哲男『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019年)
- ^ 『岐阜県史史料編古代中世四県外古文書』1973年。
- ^ 船戸政一、清水進『戦国の梟雄斎藤道三』1973年。
- ^ 小和田哲男『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019年)
- ^ 木下聡『美濃斎藤氏 論集 戦国大名と国衆⑯』(岩田書院、2014年)
参考文献[編集]
関連作品[編集]
小説[編集]
- 坂口安吾『梟雄』(初出『文藝春秋』1953年)(法蓮房~)
- 司馬遼太郎『国盗り物語』(新潮文庫、1971年)(法蓮房~松波庄九郎~西村勘九郎)
- 岩井三四二『簒奪者』(学習研究社、1999年)
- 岩井三四二『斎藤道三 兵は詭道なり』3冊(学研M文庫、2001年)
- 宮本昌孝『ふたり道三』全3冊(新潮文庫、2005年)徳間文庫、2010