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フランシスコ・マシアス・ンゲマ

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フランシスコ・マシアス・ンゲマ
Francisco Macías Nguema

フランシスコ・マシアス・ンゲマ(1968年撮影)

任期 1968年10月12日1979年8月3日
副大統領 エドムンド・ボシオ英語版
ミゲル・エイェゲ英語版
ボニファシオ・ンゲマ・エソノ・ンチャマ英語版

赤道ギニア共和国
初代 自治政府評議会副議長
任期 1964年1月1日1968年10月12日
議長 ボニファシオ・オンド・エドゥ英語版

出生 1924年1月1日
スペインの旗 スペイン領ギニア リオムニ州英語版ンザンガヨン市
死去 (1979-09-29) 1979年9月29日(55歳没)
赤道ギニアの旗 赤道ギニア 北ビオコ県マラボ市 プラヤ・ネグラ刑務所英語版
政党 赤道ギニア人民思想英語版
(1958年 - 1963年)
赤道ギニア国民連合運動スペイン語版
(1963年 - 1966年)
赤道ギニア民衆解放運動スペイン語版
(1966年 - 1968年)
赤道ギニア人民思想英語版
(1968年 - 1970年)
労働者国民統一党
(1970年 - 1979年)
受賞
配偶者 クララ・アンゲ・オサ
モニカ・ビンダン・アヨンなど
子女 5人以上
親族 テオドロ・オビアン・ンゲマ(甥)
宗教 無神論

フランシスコ・マシアス・ンゲマスペイン語: Francisco Macías Nguema, 1924年1月1日 - 1979年9月29日)は、赤道ギニア共和国政治家。同国の初代大統領

概要[編集]

大統領就任直後の1969年3月5日、クーデター未遂に直面したが、なんとか鎮圧した。それから、1972年までに彼は国家の全権力を独占し、最終的には独裁政権を押しつけ、それによって国のすべての政党を彼が率いる単一政党に統合し、それを彼は単一国民労働党と呼んだ(PUNT)。同年、自らを終身大統領であると宣言し、政敵に対して激しい弾圧を加えた。

彼は明確なイデオロギーを欠いていたが、過激な国家主義好戦的であり、自らをマルクス主義者であると正式に宣言し 、フランシスコ・フランコアドルフ・ヒトラーの人物を公に賞賛し、自分自身を「マルクス主義者・ヒトラー主義」と定義した。彼による独裁政権時代、彼はかつてのスペインの大都市から離れ、ソビエト圏フランスに近づくようになった。 1979年、甥で刑務所長のテオドロ・オビアン・ンゲマが主導し、ガボン軍モロッコ傭兵の支援を受けたクーデターによって打倒され、マラボシネ・マルフィルで開かれた公開裁判で裁かれ、死刑判決を受けて処刑された。

彼の政権下、赤道ギニアは泥棒政治、蔓延する汚職、市民の極貧反知性主義個人崇拝、極端なファン人民族主義虐殺反ナイジェリア感情、名称のアフリカ化によって特徴づけられた。 反植民地主義者として活動中も、政権に就き権威に固執し続けた時も、彼は自身の名前を何度も改名した(メズ・ム・ヌゲメ、マシ・ヌゲマ・ビヨゴ・エグエ・ンドンなど)。個人崇拝としては「マシアス以外に神はいない」という言葉を国の標語にした。また、泥棒政治としては、赤道ギニア中央銀行総裁の殺害を命令し、国営銀行を機能不全に陥れ、そこから国庫に残った財源を略奪し続けた。

経歴[編集]

ファン族出身。もとは共産主義者。スペイン植民地であった頃に、現地議会の急進独立派のメンバーであった。その後、植民地支配の終焉とともに選挙によって初代大統領に選出され、独立直前の1968年9月に就任した。外交ではソ連圏と緊密な関係を維持する一方で国民と外部世界の接触を抑える一種の鎖国政策を実施した。

1970年に野党活動を禁止し、自らが率いる唯一の合法政党労働者国民統一党を結成。1972年7月には終身大統領を宣言、1973年に大統領への絶対権力の集中を定めた憲法を採択、独裁体制を固めた。恐怖政治をおこない、多くの反体制的な国民を粛清したため、国民の3分の1が亡命者として国外へ脱出するという異常事態が発生した。1979年に甥のテオドロ・オビアン・ンゲマ率いるクーデターで処刑された。

なお、失脚時に妻と子供は北朝鮮亡命している [1]

関連項目[編集]

注釈[編集]

  1. ^ “北朝鮮で15年過ごしたアフリカ独裁者の娘、回顧録出版”. ロイター (ロイター通信社). (2013年10月4日). https://jp.reuters.com/article/jpchina/idJPTYE99303C20131004 2013年11月8日閲覧。 

外部リンク[編集]

先代
(独立)
赤道ギニアの旗 赤道ギニア共和国大統領
初代:1968 - 1979
次代
テオドロ・オビアン・ンゲマ